日常記憶地図「上町台地編」

ホームと自由

研修医時代

研修医時代(拡大)

医大付属病院勤務時代

ヨシノリの日常記憶地図


ヨシノリ

ヨシノリ

谷町4丁目の国立大阪病院(現大阪医療センター)で研修医として2年勤務。その間谷町6丁目のアパートに住む。勤務先が変わった後も3年間住んだ。

上町台地歴

5年+α(住む/働く)+2年(シェア)

日常生活

研修医時代 1987-1989年(28才-30才)

谷町4丁目の国立大阪病院(現大阪医療センター)で研修医として勤務。徒歩で通勤。
24時間体制で、受け持つ患者さんは10-15人。容態が悪くなった人がいるとすぐにポケベルで呼び出される生活。

スーパーが近くにないこともあり、食事のほとんどは、病院内の食堂で済ます。 休みの日に余裕があるときは、からほり商店街に買い物に行くこともあった。 安堂寺通りの和菓子屋は、自宅に戻ってちょっとおやつを食べたい時に、行った。

家の近くのローソン(谷町5丁目店 現存)によく買い物に行っていた。(当時コンビニは珍しかった)
ローソン谷町5丁目店 (Googleストリートビュー)

谷町五丁目の少し西に入ったところにケーキ専門店があり、イートインでコーヒーも飲めた。看護婦さんにお世話になった日には、そこでシュークリームなど(100-200円ぐらい)を買って、詰め所に差し入れをしていた。

職場から歩いて10分ぐらい、安堂寺通り上町筋近くに鰻屋があった。 学会や症例報告会が終わった後などに、医局の先輩などに連れて行ってもらう「ちょっとよいごはん」

鶴橋に焼き肉を食べに行くこともあった。

玉造駅近くのシャツギャラリーという仕立て屋があった。背が高く市販のシャツが合わないので利用していた。

2週に1回ぐらいは、タクシー(複数人で割り勘)で心斎橋に飲みに行った。 職場の寮に住んでいる友人も多く、23時頃には長堀橋通りのアメリカンパブまで戻ってきて飲み直した。 現場の人間関係を良くするために、看護婦さん達と(寮住まい)と、飲みに行くこともあった。
当時はカラオケ全盛期で、カラオケバー(ボックスはまだない)にも行っていた。

新人歓迎会や年度末など年に1-2回、北新地に連れていってもらった。音楽は生演奏、ホステスさんにはチヤホヤされるが、研修医のため命じられたら宴会芸をしなければならない立場。

阿倍野の病院に地下鉄で夜勤バイトへ行っていた。(研修医の月給が少ないため) 行き倒れの人が毎晩何人も運び込まれる様な病院だった。
他にも森ノ宮など複数の病院にバイトに行っていた。

医大(母校)付属病院勤務時代 1989-1992年(30-33才)

放射線科に入局し、CTなどの検査データを毎日大量に読影する日々となる。同時に病棟にも患者さんを受け持った。ただし担当は3-4人になったため、研修医時代のようにポケベルで頻繁に呼び出されるということがなくなり、余裕が出た。日曜には休めるようになり、近所の銭湯(いろは湯)にも行けるようになった。


いろは湯(Googleストリートビュー)

借りていたアパートは気に入っていたため引っ越しをせず、大阪城の横を通り天満橋から滝井(京阪)まで大川沿いを30分かけて自転車通勤する。

粉川町にCDレンタル屋(地下。1992年ごろ閉店)があり、音楽CDをよくレンタルするようになった。
四天王寺にインドカフェがあり、時々通っていた。カレーやチャイがおいしかった。

趣味としてやっていた写真に力を入れたくなり、写真表現大学(当時は芦原橋のリバティ大阪)の作家コースにに2週に1度、日曜日に通うようになる。医者という仕事が嫌になっていたこともあり、アーティストとしてやっていきたいという思いが強くなる。
写真の現像やプリントのためフォトラボに通う。天満橋の「クリエイト」に初めは通っていたが家の近くに別のラボ「ホリウチ」があったため切り替える。
上本町ベルギー・フランドル交流センターや心斎橋のPicture Photo Spaceに展覧会を見に行く。

再研修時代 1999年(39才)

7年間のフランス生活を経て、医者に復帰するために、半年間国立大阪病院(現大阪医療センター)で研修を受ける。 その間は病院敷地内の寮に住む。

以前住んでいた頃より、谷町筋西側にマンションが増えきれいになった。 家の周辺にあった家族経営のような小さな印刷工場が震災を経て、減ってしまい、そういった土地が更地になり、マンションになっていったようだ。

ギャラリスト時代 2006年-現在

再度フランスで1年ギャラリストの勉強をした後に、奈良でギャラリーをオープン(2005年)する。大阪、京都、奈良の複数のギャラリーのアートイベント「ギャラリズム」に2006-2008年の間参加する。(会場は当時の大阪府立現代美術センター:谷町四丁目北側)

2011年には天満橋北詰にシェアアトリエ(nm2)をかまえる。(2013年に撤退)

愛着のある場所

自然のあるところに思い入れがある。

研修医時代

桜の咲く銅座公園での医局の皆とのお花見。場所取りなど含め、体育会的・家族的な感じ。疑似家族のような関係性があった。

銅座公園
向かいのカフェから見た銅座公園(サトウ撮影)

医大付属病院勤務時代

大阪城から毛馬までの水辺サイクリングロード。対岸の造幣局の桜を眺めたりした。

気がついたこと

改めて今地図で見てみると、行動範囲はとても狭い(1km四方程度)が、当時は狭いと思っていなかった。 同じ道しか歩いていない。

上町台地などの土地の意味をわかっていなかった。研修医時代に夜勤バイトしていた病院が釜ヶ崎エリアに隣接していることも知らなかった。

サトウが思ったこと

ミズホさんとは家も近く、ミズホさんの中学の通学路とヨシノリさんの通勤路が一致し、生活圏もほとんど重なっているようでした。また、自転車での移動ルートがユウキさんと似通っています。

愛着のある場所が、研修医時代の家族的な関係性を思い起こさせる銅座公園(でのお花見)から、医大病院勤務時代には自転車での通勤路の風景に変わっていき、そして写真へと進路を変えて行くことになるという、「みんな」から「個」への内的な変化を感じました。

その後、ギャラリストになってからも大阪府立現代美術センターでの展覧会に出展されるなど、谷町四丁目周辺との縁がまた生まれているなど、節目節目での上町台地との接点が興味深いです。

80年代後半から90年代にかけてのバブル期、夜勤バイトでの阿倍野、高級店に連れて行ってもらった北新地、飲みに行ったり写真関係で通った心斎橋、自転車で通り過ぎた上本町は、それぞれに今よりずっと猥雑さのようなものがあったそうです。普段谷町四丁目~六丁目エリア内を「家」的な領域として生活されていたなら、日常との差はより強い印象を受けたのではないかと思いました。


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